漫画を描くコツははしょること
私は漫画描かないので、あと描く予定も多分ないのであてにもなんないんですが。
でも読むのは好きです。
それで今ドラゴンボールを何回目かわからない読み返してるんですが、今色んな創作に触れて物量におぼれて、もちろん好きな作品もある中でもこれは本当に面白いしすごいなって思って、それでいまこんな記事を書いてます。
私は架空のお話を作る媒体には大体三つあると考えていて、それは小説、漫画、映像の三段階に分けられます。
これらには優劣は無くとも長所と短所があって、様々な要素で順列がつきます。
アクションなら断然映像の方が表現しやすいです。小説であれば登場人物の長考や掛け合いを存分に詰め込めます。
漫画はその中間で、そのどちらにも寄ります。
小説では基本的に一人でも物語を完成させられ、映画やアニメではお話と映像を作る人は分かれていますが、漫画家はその両方を同時にこなす場合が多いでしょう。多分。
だから鳥山明はすごいって思いました。特に今読んでる初期の部分なんかはお話が面白くてその上絵も漫画も上手いって、これが天才かと。
そういえば今ここまでで450文字ですが、これだけのテキストを漫画に詰め込んだら何ページくらいかかるのでしょうか。
漫画を描く時のルールって思ったより厳しいようで、特に見開きから次のページをめくらせる、めくった後に何を見せるかって点ではある意味大きな制限を受けながら書くとさえ思えます。
漫画「デスノート」ではかなりの文章量を1ページに詰め込んで、なおかつ漫画としてちゃんと読ませているバランス感がすごいと思いましたね。
まあ詳しい技法はわかんないんですが。なんでもLがよく何かを食べているのは説明シーンでも動きを出せるからだったとか。
まあそういう訳で、特に限られたページ数に1話をきっちり収めようと思うとそれはもうパズルのように時系列の整理とページ配分を綿密に行っているんだと思います。
で、本題のはしょりがどうたらって話なのですが、漫画って小説、映像に比べて「敢えて表現を省く」事が多いんじゃないかって思ったんです。
描写がある意味細切れになっているので、敢えて描かずとも伝える。文章で言う「行間を読む」音楽で言う「休符を演奏する」に近い技術なのかもしれません。
っていうかそうだわ。これも何にでもいえることだわ。今気づいた。
まあ演奏してないのに音を錯聴させる的な何かで、漫画でも描写せずに、むしろ描写しない事で演出にする方が良い物にできる気がしますね。
不要な部分は無いに越したことはないのです。
パンチ一つにしても振りかぶりをスローで描いたり、むしろ腕を動かしてもいないのに殴られたとかで速さを表現できるし。あーまた小難しく考えちゃったけど結局ケースバイケースで必要に応じて、でしたね。
(・・・6巻読了)
やっぱ上手いなこの人...
んー....まあ鳥山明氏の上手さをこんな一記事で語れるわけないので適当に礼を挙げると、ブリーフ博士が警官を孫くんだと間違える→(誰かが警官は孫くんではないと指摘するとか何か)→いやー通りで!なるほど言ってた通りチビだ!
とほかの漫画だとあと3コマくらい使うところを右ページと左ページの狭間に消し飛ばして省いていたのがわかりやすかったかな。ほかにもたくさんあったけど。
ブルマの「同人誌的なことするつもりでしょう!」→その通り(乗り物に乗る)→やっぱり!って感じで乗る動作を省いてスピード感を出したりね。
極端な話、きっかけと結果だけ描写すればその間の出来事は読者が勝手に想像してくれるので、その間は適度に必要な分だけ描写すればいいのかな。
音楽もある意味イントロとサビがメインであとはおまけみたいなもんだしね。
まあこれは鳥山明氏が適当で面倒くさがりな性格だったのも大きいんだと思う。少女漫画家がドラゴンボールを書いたら全然アドベンチャーにならなさそう。
今回のブログを要するに、「理由が無ければ無駄なものは省いた方が断然良い」ってことですね。逆に意図的にテンポを遅くしたり、重苦しくしたいのであればどんどんそういった描写を挟むと良いのかも。これは他にも色々応用が利きそうですね。
ちょっと前にTwitterで話題になったなろう(だっけ?)小説「すばらしきアッシュ」なんかは、このきっかけと結果、そして少年漫画系王道の主人公がいかにすごかったか。
それだけを勢いよく描写したからあの作風で面白い、うん一応面白いと思える作品になったのかなぁと。
ある意味ではサイヤ人編以降のドラゴンボールもこれと同種になるのかな。内容薄々。
という事で、本日は以上になります。
ドラゴンボールは面白いから一回は読もう!絵柄も古いけど古くないよ!
おまけ
鳥山明氏はめんどくさがりだけど大事なところでは手を抜かないよね。
フラグ立てと回収がすごく丁寧だと思う。単行本でも面白いけど、ジャンプに掲載されたときなんかはさらに「次週も読みたくなる」様に作ってたんでしょう?
個人的には映画みたいにひとまとまりの作品をつくりたいけど、シーンとシーンのつなぎ目と考えればこの構成のパターンも良く覚えておくと役に立ちそう?
ペルソナ4でバッド?エンディングに...
衝撃だった。アトラスなめてた。
この感覚は未体験だったけど感じた。
やっぱりこの後ろめたさというか、明るくなりきらないというか、絶望の中にも希望はあるけど希望の中にも絶望があって必ずしもどちらかに振るから無いというか...
うん、やっぱり「後ろめたさ」だ。
メガテンはずっと興味はあったけどテンション的に遊びきれるか不安だったので、初めてプレイしたアトラス作品はペルソナ3ポータブルだった。
P3はペルソナがおしゃれ路線に入った最初の作品と私は認識していて、それはもっと幅広い層の人にも遊んでもらう為の路線だとプレイ前は思ってたけど、パッケージのどことなく明るく無い雰囲気はゲームの中にも現れていた。
うっすら暗い。
この時、遊んだことも無い「メガテン」みを確かに感じた。
そしてバッドに入った時のやるせなさ。
ハッピーエンドでは無いが、その結末は必ずしも不幸とは言えない。
大団円というわけでは無いが、うまくまとまっていた。
それはノーマル、他のゲームであればハッピーエンドにあたるエンディングでも似た感想だった。
でもあれは良い終わり方だったと思う。
未プレイの人は是非。
そして本題のペルソナ4。ついさっきバッドになった方。
個人的に、というかペルソナ3の後に4をプレイした人の殆どが同じ感想だと思うけど、このペルソナ4は3から物凄く進化してる。
4やるまでは圧倒的に3の方が好きだったし、あの3の世界が好きだったからこそ思い出補正で4が3を超えることはないと思ってた。
(4の前に3DSのQをプレイした影響も大きいと思う。ちなみに未クリア。)
まあプレイし始めてすぐにその考えは改まったよね。
ゲームのシステムも、ストーリーも、何から何まで細部に至るまで大きく超えてきた。
ずっと感心してたし夢中になった。アトラスすげえ。
それで今回のバッドエンディング。
あの終わらせ方は凄かった。
3をプレイした人なら薄々感じ取れたあの感覚を維持しつつ、よりドラマティックに、より感情を揺さぶられて終わらされた。
ヤバい。堂島の最後の問いかけとか半端ない。
それに対してあの回答を選んで、自分の弱さに気付かされてしまった。でも自分はああ回答するしかなかったと思う。
他の選択肢は必ずしもそうだと思えなかったから。それらに内包される出来事を否定も肯定もしきれなかった。
その前の緊迫した空気の中の選択肢も、選択肢の重みがこれまでとは比べものにならなかった。
多少悩む選択肢は数多くあれど、これほど一言一言に気を遣うシーンは現実の、ゲームではないという意味のリアルの世界でもそうそう無い。
主人公視点ではもちろん、プレイヤー視点でもどの選択肢がどう転ぶのかと本当に悩まされた。
それどころかもしかしたらこれまでのプレイでエンディングが変わるのかもとすら思った。
マーガレットの言葉は忠告だったのかも知れないと。日頃サボってた報いなのかと、気づくのが遅すぎたのかと。
思わずググった。もしそうなら1から遊び直さないといけないかもと思ったし、もう寝ないといけないのにその疑問だけは晴らしたいと思ったから。
まあ(多分)そうじゃないと分かったので一安心。ネタバレを避ける為恐らくと思った段階で切り上げたから確信ではないけど。
それでもサボった報いは多少はあるなとか思ったり。
今回は自分の性格的にはどちらのエンディングを先に見てもおかしくなかったけど、これもある意味自分らしい選択肢でバッドになった。
一応仮説を立てて恐らくこれもバッドだという選択肢を選んで、同じような結末を迎えたので恐らく残った選択肢がノーマルエンドに、4は明るめの作品だからもしかするとハッピーエンドに繋がるんだろう。
そのルートではどんな物語が待っているんだろうか。全部すごいけど個人的には特に脚本家の仕事ぶりに関心も嫉妬もした。
明日からもまだまだ楽しめそうだ。
さて、明日は検診があるので今日はもう寝ます...おやすみなさい。
リアル日記とブログの違い
さて、おきつねブログを開設して最初の記事から早8日が経ちました。
元々入院中に日記をつけ始めて、それが思ったより性に合ったからと始めたブログだったので、という事はやっぱりリアルで日記をつけていたのかというと...つけてませんでした(笑)
入院中はすごく暇でしたし、生活空間も狭かったですし、持ち物も少なかったですし、まあ兎に角リアル日記はあの環境だからこそ続いていたんでしょう。
でもまだ自宅療養中で退屈しのぎの思考自体はずっと続いています。むしろ調子がよくなるにつれてどんどん複雑に、深く...という事で、これこそ何かに書き留めて置かないと、あとアウトプットしながらじゃないと思考の道がそれてしまうので。
でも手元の小さなノートは入院中に使っていたもので、入院生活最終日の感想の続きはなんとなく書きたくなかったし、でもブログはいちいちPCを起動するのが面倒だったので結局Twitterで長文書いたりしてました。なんか本末転倒というか、他にもっと適切な言葉がありそうだけどなんかそんなニュアンスの何か。
しかしやっぱりTwitterは自分に合っていませんね。5ツイートにも渡ったよくわからない思考をそれを望まない人たちにまで見せつけてるというのもなんですし、なんとなく交流のある人たちを意識した書き方になる事も多いので中々素直に書けないというか、本来不必要である筈の気遣いが必要になってしまうのがよろしくないなぁと。
まあでも今いる188人のフォロワーさん方は私が何を呟いても減らない精鋭揃いで、時に私の思考に前向きで興味深い意見をくれたりもするので一長一短ではありますが。
ここがTwitterの楽しいところで、普段の生活では出会えなかったであろう縁と彼らに感謝です。正直ここを離れるのは惜しいのですが、最近は望まないインプットでストレスの溜まる思いをする事も多いので潮時でしょう。
後々見返すには不便すぎますしね。
日記とWeblog
では本題。
そもそもブログとは何だったかという話から始めるとしましょう。
ブログの語源は"Web Log"(ウェブ日記)だそうで、Weblogが略されてblog、ブログと呼ばれる様になったそうです。
このWeb上で日記を書くという事の特性として一番大きいのが「不特定多数の読み手がいる」という事ですね。
普段リアルでつける日記の読み手って、自分以外にはほとんどいないと思います。
交換日記もありますがあれはチャットと手紙の中間みたいなものですし。
不特定多数の人に読まれるとすれば自分の死後に何らかの形で有名になってしまうパターンくらいでしょうか。生きてる間の話は考えたくないですね。
となるとリアル日記の想定する読み手は自分、人によっては読み返しもしないで時間の流れに埋もれて消えるだけかもしれません。
私は普段の垂れ流しでどこにも留まらない思考を、何らかの形で残しておきたいと思って日記(Twitter)を書いています。多分。
いや、記録かな。まあ日々思った事を文字にするのに何らかの意義を感じているのは間違いありません。
で、ブログの方。これは大体不特定多数の人に読まれます。
という事は、書く際に少なからずその人たちへの意識が加わります。
現にこうして日記では使わなかった敬語なんか使って、だれかに説明するかのような語り口で文章を書いているし...
あれ、という事はこの記事も誰かに読まれることになるのか。
Twitterも結構前から鍵垢でしたし、なんか恥ずかしくなってきた。
まあ読まれたくなかったらボタン一つで非公開にできるんですけど....
とまあこんな風に思考の純度も変わってくる訳ですね。
多分同じ事について考えていてもどっちの媒体で書き留めるかによって内容は変わってくるんじゃないかと。口調、どうしようか。
あと他の違いとして、読み返し易さ、扱える文字数、その辺に絵を描けるかどうか、いざという時に燃やすなどしてこの世から完全に消し去れるかどうかがありますね。
個人的にブログが勝っているのは読み返しやすさと扱える文字数。
リアルでざーーーーーっと書くと字が汚すぎて読めないんです。
ここが一番の理由かもしれない。いやこれ以外の理由って無くないか...?
多分毎回こんな感じでgdgdなのでしょうが、書くのにも飽きたので今日はここまで。
ブログだとどうも作り物っぽくなるのが最大の難点ですねぇ。
暫くは一度リアル日記に書き留めて、キーボード打ちでも自然に文章が書けるように訓練を...ここまでする必要あるかな?
あと途中で飽きてもいい様にルーズリーフを使うとかetc.........終わり!
Twitterやめました。ブログ始めました。
入院中、暇つぶしに日記をつけ始めたらこれが良いのなんのって。
141文字以上を無制限に使えるし、タイトルも付けられるし。
まあそんなこんなでブログ、始めました。(84文字)